変わりゆく街の魅力を再発見 新・小杉散歩

2020.9.29

農業用水として利用された江戸〜昭和初期の二ヶ領用水(後編)

二ヶ領用水の歴史シリーズ。主に江戸時代について触れた前回に続く、後編です。

先に「飲み水にも窮した」と書いたように、二ヶ領用水は農業だけでなく、そこに暮らす人々の生活用水としても利用されていました。

とくに中原区近辺では地質上地下水面が高いため浅い井戸が多く、汚水汚物が流入しやすかったということですから、二ヶ領用水は命の水とも言えるものだったに違いありません。大正の始め頃には水の汚染が始まったそうなのですが、そうなってからも各家ではシュロの皮などを何層にも重ねて陶器や素焼きの瓶に敷いた「こし瓶」を使ってろ過したものを沸かして飲料用に使うなどしていたようで、昭和3(1928)年4月、中原町営上水道が完成し丸子・小杉・神地・木月・下小田中の地域に給水が可能となるまでは、飲用水としても多く活用されていたものと思われます。

「こし瓶」(中原区二ヶ領用水竣工400年記念事業ガイドブック「なかはら二ヶ領用水と昭和の風景」より)

また、もちろん用水は飲み水として以外にも利用されていました。用水の各所には洗い場が設置され、人々はそこで野菜を洗ったり米をといだり洗濯をしたりと様々に活用していたようです。

明治末から大正始めには、用水を利用した水車も各地に多く作られました。中原区内にも「野口家の水車」(中丸子児童公園付近)「白玉屋の水車」(法政二高付近)や「田中の水車」(櫓橋付近)などがあり、昭和10年代くらいまで米や麦をつくのに利用されていたそうです。 その中でも中丸子に あった「野口家の水車」は、特に大きな水車として有名で、遠く東京から粉をひきに来るお客もいたのだとか。
「野口家の水車」は、1923(大正12)年の関東大震災で倒壊しましたが、そのころには電気の普及により、すでに水車の利用は少なくなっていたということです。

「昭和はじめころの二ヶ領用水」(中原区二ヶ領用水竣工400年記念事業ガイドブック
「なかはら二ヶ領用水と昭和の風景」より)

用水を利用するほかにも、用水に生息する生き物は食用として人々に恵みを与えていたようです。川エビやウナギ、シジミやドジョウやナマズといった生物をとったり……漁業で生活している漁師もいたということですから、多くの生物がいたのでしょう。

二ヶ領用水やその周りで見られた生物(中原区二ヶ領用水竣工400年記念事業ガイドブック「なかはら二ヶ領用水と昭和の風景」より)

このほか、子どもの遊び場、人々の娯楽としても用水は活躍していました。夏にはホタルを捕まえたり用水で泳いだり、冬は用水が引かれた田んぼでアイススケート、用水の改修工事で使われているトロッコで遊んだりしていたそうです。昭和の時代、二ヶ領用水は中原に暮らす人々の生活に密着したものだったといえるのではないでしょうか。

こうして、二ヶ領用水は昭和の初期まで農地と生活を潤し続け、1908(明治41)年には用水受益面積は1908年に2851ヘクタールへと拡大し、ピークを迎えます。当時の中原区は居住区以外ほぼすべてが田畑で、米や野菜はもちろん、梨や桃といった果物も多く栽培されていたそうです。

江戸時代後期〜明治時代初期の二ヶ領用水。川崎領はそのほとんどが農地となり、その隅々にまで用水が広く行き渡っている。(二ヶ領用水竣工400年プロジェクト《記念事業実行委員会》「二ヶ領用水知絵図 改定版」より)

大正時代〜昭和初期時代の二ヶ領用水。鉄道網が発達し、臨界部分では農地が工場へと変わり始めた。(二ヶ領用水竣工400年プロジェクト《記念事業実行委員会》「二ヶ領用水知絵図 改定版」より)

旧総合自治会館付近に設置されている案内板。完成から現在までの二ヶ領用水が簡潔に説明されている。

用水としての役目を終えた現在の二ヶ領用水。清らかな流れを取り戻し、憩いの場として人々を楽しませてくれている。

現在は用水としての役目を終え、本年(令和2年)3月10日に国の登録記念物に登録された二ヶ領用水。近年の姿になるまでは、工業用水としての活躍や汚染の悲劇など、まだまだドラマチックな運命が待ち受けているのですが、それはまた次の機会にご紹介したいと思います。

参考:
二ヶ領用水竣工400年プロジェクト《記念事業実行委員会》「二ヶ領用水知絵図 改定版」
中原区二ヶ領用水竣工400年記念事業ガイドブック
「なかはら二ヶ領用水と昭和の風景」