「中原街道と武蔵小杉」1 堤防で姿を消した90軒の集落

時代とともに変化してきた河原

堤防斜面に今も残るかつての観客席(平成12年)

多摩川の河原は、時代とともにさまざまに変化してきている。
オートレース場の時(昭和11『1936』年『多摩川スピードウェイ』で1周1.2km)開設。爆音をとどろかせて走る車に熱狂する人々の姿が見られた。
堤防の斜面には、コンクリートで階段のように造られた観客席が今でも見られ、昔の名残をとどめている。
また、夏には花火大会が開かれ、東京・川崎の両岸を埋める観客の頭上に、美しい花模様を咲かせていた。
第2次世界大戦中は、食料不足から畑として開墾され、人々が汗を流して働いた。戦後は自動車の練習場として利用されていた時もあった。
同じ場所が時代とともにさまざまに変わってきた。
この広い土地(河原)に、大正9(1920)年までは90軒ほどの家々が並んでいた。
上流の東横線鉄橋あたりを「青木根」、丸子橋より下流の方(渡し場周辺)を「松原通り」、東海道新幹線・横須賀線鉄橋に近い方を「山谷」と呼ぶ3つの集落があった。
「青木根」地区には30軒ほど、「山谷」地区には20軒ほどの家があった。
東京側の堤防の1ヵ所切れ目がある所(丸子橋の下流約300mの地点、調布清掃事務所の近く)を結ぶと、江戸と相模を結ぶ中原街道となる。この道の両側に40軒ほどの家が立ち並んでいた。 「松原通り」と呼ばれ、丸子の渡船場から100mほど砂利道を歩くと、ややゆるやかな坂になっていた。この坂の下に数本の梅の木があった。その近くにつるべ井戸があり、きれいな水が飲めた。坂を上ると、両側に家が並んでいた。
多摩川の流れは大きく東京側に蛇行し、亀甲山古墳のある丘陵に接し、川崎側は広い河原を形成している。
この河原一帯に、大正8(1919)年末まで90軒ほどの集落があったとは、とても想像することができない。

丸子渡船場付近(東京側より)。左側は丸子渡船場、右側は東横線鉄橋、中央は砂利堀船(大正15年)

東横線鉄橋(東京側より)。左側は丸子渡船場(昭和7年)

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