「中原街道と武蔵小杉」1 堤防で姿を消した90軒の集落

多摩川の地境の争い

江戸時代、多摩川は二ヶ領用水として村々の水田を潤す半面、しばしば起こる洪水によって多くの被害を与えていた。
当時は堤防がないため、流れの変化によって村境が乱れ、村同士の争いが絶えなかった。紛争が長びくと評定所で裁判をあおぎ、絵図面に墨引きして裁判官の認印をもらっていた。
写真の「裁許状」は小杉村(安藤家所蔵)のもので、享保2(1717)年、裁判で絵図面の上に不明であった目印抗を打ち直したものだ(現在の等々力緑地公園付近)。
表に判決文、裏に論争個所を絵図にして、新しく定められたところに墨引きし、裁判官が認印を押した「絵図面」で、裁判官の中に「大岡越前守」の名前が見られる。

小杉・等々力村裁許絵図。享保2(1717)年、安藤家蔵裁

裁判官の署名に大岡越前守の名前もある

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