武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」2 変貌の激しい武蔵小杉
交通便利な武蔵小杉
中原を縦貫するJR 南武線・横須賀線と横断する東急東横線・目黒線の交差点に武蔵小杉駅があり、交通の利便性が高く、乗降客で混雑している。平成になると駅周辺のグランドや工場跡地がマンション用地となり市街化の再開発が一気に進んだ。目黒線の乗り入れで地下鉄南北線・三田線とともに直通で便利になった。さらに平成22年JR 横須賀線の新駅(武蔵小杉駅)が開業。湘南新宿ライン成田エキスプレスが停車し、東京都心や横浜へのアクセスが一層便利になった。
特に、若い世代を中心に人気が高まり、中原区の人口・世帯数は年々増加が続いている。川崎市で一番人口の多い区である。
現在も駅周辺には、超高層マンションが林立し、再開発による新しい街づくりが急速に進んでいる。
昔、中原が村だった頃は、南武線・東急東横線も開通していなかった。あたり一面は水田や畑だった。中原村の外れに鉄道は敷かれた。中原街道と府中街道が交差する所は「小杉十字路」と呼ばれ、 昭和初期頃までは、小杉の中心だった。
中原街道沿いの中でも小杉は、馬車やバスの停留所があり、多くの商家や郵便局(電話)、響察署、劇場、銀行、東京電灯(東電)事務所、宿屋、料理屋(飲食屋)、風呂屋、医院などがあり、近くに役場や 信用利用組合もあった。ロンドン、パリと言われるほどいつも賑わっていた。役場のある神地(上小田中)地区も多くの商家が並んでいた。
大正14年に、中原村と住吉村が合併して中原町となった。
大正15 年、東京急行電鉄、昭和2 年、南武鉄道の開通が、中原町の都市化の始まりだった。
田畑を掘って線路や駅工事の土盛りをしたため、線路近くに多くの池が出来たり、グランドなどが作られた。東急電鉄は、沿線に大学予科を誘致(日本医科大、法政大、慶応大)したり、土地開発(住宅や宅地の分譲)を開始すると次第に駅周辺に人々が集まり、商店も増えてきた。また、広い土地、値段が安いことから会社・工場等も集積しはじめた。学生の町、工場の町の中原に変わると警察署、郵便局、電話局、消防署など相次いで武蔵小杉駅周辺に移転した。駅周辺には商店街が形成され賑わうようになった。そして、小杉の小杉十字路や街道沿 いの商店街は、次第にさびれていった。
現在、「小杉」といえば「武蔵小杉」のことだと思っている人々が多くなっている。