「中原街道と武蔵小杉」2 変貌の激しい武蔵小杉

南武線の路線計画

南武鉄道(南武線)は最初、多摩川砂利鉄道といって砂利運搬が目的だった。
奥多摩の上流の砂利や石灰石を、川崎臨海の浅野セメント、日本鋼管等に貨物輸送のために必要だった。貨物輸送から人の輸送へと変化してくるが、最初の路線計画では現在の新丸子駅付近で東京横浜電鉄(東横線)と交差し、中原街道に沿って北上する予定だったが、地元の小杉住民(現在より、400 ~ 500 m北の方)の強い反対にあい、やむなく現在の武蔵小杉の所に変更され、水田の真ん中(一番低い土地)を走ることになった。小杉の人達が反対した理由は、当時、半農半商や農家が多く草屋根の家も多く見られた。
汽車ポッポの煙で火事になる危険があること、線路ができると、それによる水害が心配だったことによる、と古老は話していた。
南武鉄道の立てた計画だと、新丸子周辺は乗り換えは便利かもしれないが、東急東横電鉄の立てた土地分譲計画が、御破算になってしまうことから、東急も南武線を南にするように、後押ししたとも いわれていた。
その後、南に押しもどされた南武線は、現在の位置になり、武蔵小杉駅周辺が中原の中心となり、かつての中心地であった小杉の十字路周辺は、寂びれていくことになってしまった。

南武線の予定線(推定)

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