「中原街道と武蔵小杉」3 小杉御殿と小杉村

小杉宿(駅)と供養塔(鈴木家)

弘化戌申年は 1848年

街道の右側に小杉行きバス停留所がある。スーパーからライスショップに変わった「つけぎや」がある。その左側の電柱とバス停の標識の間に、供養塔が立っている。
この供養塔をよく見ると、他の供養塔にはないものが発見できる。
「武州橘樹郡稲毛領小杉駅 願主 鈴木戸右衛門 妻 八千代」
「天下泰平 国土安穏」
更に台座をよく見ると、道標になっていて、「東江戸 西中原」とある。
「つけぎや」の鈴木家は20代ほど続いている旧家で、江戸時代には旅篭屋(はたごや)として創業した。初代から15代まで続いたが、やがて旅篭屋としては生計が成り立たなくなり、附木屋(つけぎや)に商売替えをした。
附木とは、杉・松・桧などの薄い木片の一端に硫黄を塗布したもので、火口から火を移すとき、とても便利なものだった。しかしその後、マッチの普及で使われなくなった。
明治40年頃まで製造していたが、その後、よろず屋を始めた。

この護摩札は原家(大陣京)に保存されている。右側が嘉永2(1849)年 10月 30日、左側が嘉永2年4月 15日のものである。護摩札は普通正月に焚くものだが、この年には1月・4月・10月と3回焚いている

8代目の戸右衛門がお寺参りをした記念に、この供養塔を建てたようだ。
小杉が宿場と決められたのは、御殿がなくなって間もなくの寛文11(1671)年の事である。
初めは大名行列のため、馬70頭、人足250人を用意したが、江戸の中頃からは毎日、馬1頭、 人足2人というように寂れてしまった。
戸右衛門が、ここに供養塔を建てたのは、弘化5(1848)年で丁度、幕末にあたる。 その頃、日本はヨーロッパ諸国、アメリカなどから開港を求められ、黒船騒ぎで大きく揺れていた。
外国船打払令が下った頃、嘉永2(1849)年、西明寺で普通1回しか焚かない悪魔除けの「護摩」を3回も焚いた記録がある。
時の不安な世の中のようすが、小杉にも伝わってきていた。
旅で見聞を広めた戸右衛門は、街道の発展と人々の幸せを願って、駅(宿)と刻んで建てたのだろう。
<< 前へ
目次へ
次へ >>