「中原街道と武蔵小杉」3 小杉御殿と小杉村

池から「東横水郷」へ

菊地金治郎等の努力でできた「釣り堀(東横池)」に管理事務所を造り、一般に公開したのは昭和24(1949)年10月15日である。池だと、小さな感じがするので 「水郷」に改めることにし(菊地金治郎の話)、昭和30(1955)年から「東横水郷」 と呼ぶようになった。
管理は菊地金治郎が継続し、東京郊外の釣り場として太公望の楽園として賑わうようになった。
水郷の宣伝は東横電鉄が行っていた。釣り堀を始める動機を菊地金治郎は「戦後、青少年の遊び場がないので素行が悪くなっては困ること、東横電鉄としても電車利用の客を誘致する必要があること、この水郷を管理しなくてはならなかった」などいろいろあってと話してくれた。
菊地は昭和25(1950)年より東横電鉄だけでなく多聞興業、有馬興業の池も借用し、地代を支払いながら管理していた。


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