武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」3 小杉御殿と小杉村
公園施設の造成
野球場、競輪場なども考えられたが、農地法の関係で不可能だったという。当時、東横電鉄でも、もてあましていたようだ。
その後、東急は、グラウンドの一部分を残して全部、県に売却した。県では、横浜港の埋め立て地の所有者(矢野建設の矢野茂平)と、土地交換のために買い入れを行った。
川崎市が、この等々力一帯を積極的に買収しはじめたのは昭和32(1957)年からである。
昭和33(1958)年、「川崎市都市計画」で緑地として決定し、昭和37(1962)年から公園施設の造成に着手。緑地一帯の整備を検討しはじめた。
しかし売買等をはじめ、いろいろな問題が発生し時間がかかり、長い年月が経過するだけだった。
各会社のグラウンドができたのもこの頃である。
平成5(1993)年になって、ようやく新丸子東急グラウンド全体(約4ha)の問題等が解決し、川崎市が緑地公園等の整備ができるようになった。