「中原街道と武蔵小杉」4 泉沢寺・役場と商家が並ぶ神地

神地の歳の市と福引き

神地共栄会は昭和25年7月24日設立総会を開き、同年12月に第1回大売り出しをした。このチラシは第2回(昭和26年12月)のものである

昭和33年12月の新聞広告。
今までは「神地共栄会」だったが宮内が昭和27年に下小田中が昭和28年に加入した。初代の会長は小泉兼吉(山田屋洋品店)だった

中原街道で一番道幅が狭かったのは、神地橋からの「神地通り」で、2間半(4.5m)だった。ここに多くの店が並んでいたため大正から昭和の初め頃は「神地銀座」といわれ賑わっていた。
年の暮れになると「歳の市」が立ち、お祭りのように人出が多く賑わった。
昭和に入ると「神地の歳の市」は、かなり有名で遠方まで知れ渡っていた。夕方が一番賑やかで、遠くの村々からも多くの人々が集まって来た。夜店は各商店以外にも露店が30軒ほど出て、ざる・うす・のこぎり・包丁・釜・はさみ・くわ等の金物や、日用品・下着・足袋・手袋などの衣類・〆縄・だいだい・羽子板などの正月用品などが売られていた。
そのほか、おでん・べっ甲あめ・たいやき・カルメ焼きなどの食べ物を売る店などが並び大賑わいだった。
東京の柿の木坂あたりの露天商が来て店を開いていたので、たび屋(旭屋)から、そば屋酒店(コンビニ)辺りまで両側に店が並んだ。中心は、あさ屋(朝山家・肉のハナマサ)の前辺りだったようで、ほとんどの店はムシロを敷いたり、台を置いて品物を並べて売る簡単なものだった。
東京方面から帰ってくる農家の牛車や馬車が通れなくなり、交通整理員が出て交通の整理をするほどだった。
1年のしめ括りの“市”で、もうすぐお正月だということや、普段、会えない人と会えたり、話し合い、語り合いができることもあり、地域の人々は「歳の市」を楽しみにしていた。
この「歳の市」は明治の宋頃、藤田屋(藤田)、凧屋(保木)などが相談して、12月28日に立てたのが始まりである。午後3時頃から9時頃までが賑やかだった。
大正時代に入ると「歳の市」をはさんで、商店が共同でタンスの当たる「福引大売り出し」を始めた。その頃まだ、どこも実施していなかったので大変めずらしがられ人気があった。平成になるまで、タンスは商品の中に入っていた。
昭和になって20軒ほどの商店が集まり、神地商盛会を作り軒先にのぼり旗を立てて景気をつけていた。現在は神地共栄会となって継続している。
この福引大売り出しは、今ではどこでも行われている行事だが、当時はめずらしく、「福引大売り出し」の元祖だった。

昭和28年の歳末福引大売り出しのチラシ。この年から下小田中が加入した

中原信用利用組合(川崎信用利用組合から川崎信用金庫へ)の建物と職員(昭和8年9月)
大正6年2月、県より許可され昭和4年2月より名称変更した


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