「中原街道と武蔵小杉」4 泉沢寺・役場と商家が並ぶ神地

桃の箱作り(朝山家)

多摩川名産「中原の桃」のラベル。箱の横に貼って出荷していた

南武線沿線道路と中原街道の交差点近くのガソリンスタンドを経営していた朝山家は、代々「朝岡」と呼ばれていた。
明治の初期、荒物・呉服などを売ったり、菜種を絞り油にして売っていた。その後、材木屋を始めた。
「朝岡」というのは朝山岡右衛門の名前を世襲していたので、朝岡と呼ばれたのだろう。
材木屋を始めた頃、主人が日露戦争に召集され残った者で木材の仕入れなどを続けていた。仲買人の仕事のため人手が不足してきて困ったという。
大正5(1916)年頃、この地域で桃づくりが盛んに行われていたことから「桃や梨の箱づくり」(果実箱)を製造するようになった。箱といっても材料の板を自分で組み立てて、くぎで止めるものであった。
昭和になると川崎市内の桃や梨の栽培農家は、ほとんど朝岡材木屋の果実箱を利用して出荷していたといわれた。桃作りが盛んになると、朝岡材木屋は果実箱製造に主力が注がれ、材木仲買いを次第にやめるようになった。昭和32年には、朝岡商店と名称を変更した。

生産農家一戸ごとの日別・出荷先を集計した果物口取帳「神地」地区の昭和10年7月分(小川家蔵)

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