「中原街道と武蔵小杉」4 泉沢寺・役場と商家が並ぶ神地

南武線

武蔵中原駅(昭和16年)

昭和53年7月31日で引退した72系電車(武蔵中原駅)

JR南武線は、昭和2(1927)年3月9日、川崎―登戸間が開通した。大正15(1925)年東急東横線が多摩川を渡り、東神奈川駅まで開通していた。
当時、私鉄だった南武鉄道株式会社は、一般旅客・貨物の運輸とともに、沿線各地の多摩川べりで採集された砂利や砂を社長が経営している埋立地の浅野セメント会社へ運搬するためでもあった。
昭和4(1929)年12月、奥多摩で採れるセメント材料の石灰石を運ぶために、立川駅で五日市線と連絡するようになった。
砂利採掘のため中野島駅と矢向駅からそれぞれ引き込み線が敷かれ、多摩川(海上)輸送と直結していた。鉄道開通という近代化の波が押し寄せてきたこの時代、小杉の人達はその巨大な時代の流れに抵抗した。その理由は……。
南武鉄道(南武線)は、最初の路線計画ではいまの新丸子駅付近で東急東横線と交差し、中原街道に沿って北上する予定だった。しかし、地元(小杉)住民の強い反対にあい、やむなく現在の武蔵小杉駅の所まで押しもどされ、水田の中(低い所)を走ることになった。
小杉の住民が反対した理由は、汽車の煙りや火の粉で茅葺き屋根の農家が、火事になる危険があること、線路による水害(住宅より線路が高くなる)を心配たためであった。(電車が理解されてなかった)
昭和10年代、各駅を中心に工場群が形成されていった。駅付近は土地の値段が安い上、貨物駅としての便利さがあった。
昭和11(1936)年、向河原駅に日本電気(NEC)昭和13(1938)年、武蔵中原駅前の富士通信機製造(富士通)などが進出し、沿線工業化のキッカケを作った。

南武・東横線の沿線地域は、戦時中に多くの企業が集積し、中原区内で最大の工業地域となった。
昭和19年(1990)年、南武電気鉄道は、国有化され国鉄南武線となった。
昭和63(1988)年4月より、民営化されJRとなった。
平成2(1990)年12月20日、南武線の武蔵小杉―第三京浜間(3.9km)が高架化された。
橋上駅は、武蔵中原・武蔵新城の2駅となり、武蔵中原駅近くで中原街道と交差していて、交通渋滞していた街道も渋滞解消となり便利になった。
開通したばかりの川崎―登戸間にはどんな駅があったのだろうか。
南武鉄道の開通を記念して昭和2(1927)年春、発行された絵地図によると、駅は本線だけで11カ所だった。
川崎、尻手、矢向、向河原、武蔵中原、武蔵溝ノロ、登戸が停車場で電車は必ず停車した。鹿島田、平間、武蔵新城、宿河原の駅は停留所と呼ばれ、乗客が合図しなければ電車は通過していた。
単線だったので、停留所のホームで待つ乗客は、自分で上り、下りの乗りたい電車が来ると手を挙げ運転士に合図をおくった。また、駅周辺には人家がないので、遠くから乗客が走って来るのが見えると運転士が待ってくれたという。
その後、武蔵中丸子、久地梅林駅が開業(8/12)、続いて、グラウンド前、武蔵小杉駅が開業(9/24)した。
しかし、乗客は3~4人で少なかった。

南武鉄道沿線案内図(昭和5年)


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