「中原街道と武蔵小杉」1 堤防で姿を消した90軒の集落

堤防改修後の丸子通りの家並み

築堤のために青木根・松原・山谷の3地域の人々は移転していったが、移住しなくてすんだのが「玉屋料理店」と「油屋質店」の2 軒だった。これは堤防外になったからだ。
 「玉屋」は居酒屋で、草ぶきの平屋の土間に酒樽や醤油樽が椅子がわりに置かれていた。夕暮れになると一日の仕事を終えた人々が、ニシンの煮物などで一杯飲む姿が見られた。
 堤防が完成すると集落の一番はずれだった家が、逆に川から一番近い店に変わった。村人相手の商売から多摩川に清遊に来るお客を相手にと切り変えようと、赤瓦屋根カーキ色の壁で2 階建てに改築した。
 しかし、近くに河畔の「鈴半」が移転して開業したり、新しく「丸子園」料理屋ができたため、営業不振となり人手に渡った。
 建物は昭和20年過ぎ、多摩川の対岸に練習場を持つ読売巨人軍の寮になった。
 長島、王など現役選手もその姿がよく見られたという。その後、二軍選手が中心となったりした。昭和43(1968)年、建物は取り壊され鉄筋5 階建てとなり、読売新聞社員寮となった。
その後、売却され平成19(2007)年には、8 階建て2 棟のマンションに変わった。
 松原地区の人々は、丸子通りの街道沿いに移住した。「ほしか屋」をしていた野村家は「たばこ屋」を、その隣りの広い敷地に「鈴半」料理店が移住した(現在「二番館」のある周辺一帯)。
 移転前と同じように東向きに建てられ、「なまず料理」を看板にした。古い馴染み客や土地の人々が多く訪れ、大変賑わっていた。油屋の山本質店は上丸子小学校前で質屋を開業し、古い蔵だけが沿線道路ぞいに見られた。しかし平成11(1999)年に取り壊し、現在はマンションとなっている。学校前の質屋も閉店し、現在はマンション・コーポとなっていてその面影はない。

堤防改修で移転した頃の丸子通2丁目の家並み(大正9年)

多摩川より堤防の切れ目(陸閘)(中原街道)を望む。右側の木造アパートは「玉屋」料理店跡に昭和20年に建てられた木造アパート(昭和41年)

小金井魚店より堤防を望む。
左側の5階建てビルは「玉屋」跡に昭和42年築の読売新聞多摩川寮(昭和43年)

堤防から見た山本質店(あぶらや)の蔵(昭和55年)

堤防から見た山本質店の蔵跡の一部がマンションへ(平成20年)

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