「中原街道と武蔵小杉」1 堤防で姿を消した90軒の集落

へちま風呂の「丸子園」

へちま風呂で有名だった丸子園の表玄関(昭和10年)

多摩川を利用した川遊び(たから船)の料亭として大正13(1924)年7月13日、約3,000坪の広い敷地を持つ「丸子園」が開店した。
百畳敷の大広間と大浴場があり、広々とした庭には離れが点々と立っていた。それぞれ風呂があって「へちま風呂」という名前で、京浜間では名前が知れ渡り繁盛していた。
泊まり客には、へちま形の容器に化粧水を入れた土産をくれた。へちま模様の浴衣を着た宿泊客が、涼しい風に吹かれながら多摩川の河原を散歩していた。
丸子園が開店した頃、丸子で営業していた飲食店は玉屋・鈴半・柏屋・三好屋などで、同時期に新丸子に菊ノ家・もみじ等の料亭が開店した。その後、次第に増加していった。丸子園は、新丸子三業地のきっかけをつくった。
しかし、戦争のため昭和16(1941)年12月19日、日本電気(株)に買収され「丸子園」の大竹家は3代で終了した。
日本電気(NEC)では母屋を独身寮に、離れを家族寮として活用していたが、昭和43(1968)年、鉄筋5・6階建てビルにし「千草寮」として利用していた。(約3,000坪)
しかし平成19(2007)年には売却され、駐車場や14階建ての高層マンション等に変わった。

へちま風呂の浴室の一部

経営者の大竹静忠は裸一貫からスタートし、パン屋から日露戦争後、築地に「大竹製菓工場」を設立。関東大震災後には東京六郷に第二工場を建てた実業家だ。丸子多摩川の花火大会を始めたのも大竹静忠だった。
大正14(1925)年、出身地の三河(愛知県)から三河花火の職人を呼んで始めたのが広まったものだ。昭和4(1929)年から東京急行電鉄に引き継がれ、昭和42(1967)年まで続き、多摩川の夏の風物詩として親しまれていた。
一時(昭和28・29年)、地元の主催として実施したが思わしくなく、また東急主催に戻った。
昭和12(1937)年までは毎年、花火の競技大会が行われたが、戦争が始まると中止された。
昭和24(1949)年には復活、六郷橋たもとで7月下旬から8月上旬にかけて実施されていた。昭和47(1972)年からは、川崎市が政令指定都市になったことから、川崎市制記念行事となった。 現在は、二子橋下流の河川敷で8月に花火の打ち上げが行われ、上流では世田谷区花火大会が開催されている。

丸子多摩川花火大会のポスター(昭和25年)

丸子園の庭園の一部

丸子園の百畳の大広間

丸子園の離れ座敷

日本電気KK「千草寮」
家族寮、独身寮など何棟も立っていた(平成10年)

丸子園から日電「千草寮」そして14階建てマンションへ(平成20年)

昭和16年12月19日丸子園3代伊藤氏の時、日本電気に買収され、同社の寮(千草寮)となり、昭和42 ~ 3年には、5階建ての寮となった。その後、売却され、マンション(14階建て)となった。
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