「中原街道と武蔵小杉」4 泉沢寺・役場と商家が並ぶ神地

泉沢寺と門前市

泉沢寺境内(平成20年)

神地橋を渡ると、すぐ右側に「泉沢寺」が見える。
山門の入り口(右)に大きな石碑が目に入る。この碑は日露戦争に参加した村人を記念するために、明治40(1907)年9 月に建立したものだ。当時、中原村から戦争に参加した人の名前が刻まれている。
山門を入ると、古い風格を持った大きな本堂が見える。これは、安永7(1778)年に再建されたものである。
この寺は浄土宗で、京都知恩院の末寺で宝林山泉沢寺という。昔、東京の世田谷区烏山にあった吉良頼高(頼康の曽祖父)の菩提寺だったが、5 代住職・心誉の時、火災にあい天文18(1549)年、世田谷城主(領主)吉良頼康がこの地に移転し、翌年の天文19(1550)年に建立を完了したのが始まりである。
当時、吉良氏は後北条氏のもとで全盛時代にあり、その勢力は世田谷から川崎中部、横浜蒔田方面一帯に及んでいた。
泉沢寺には頼康の判物書状、印判状、北条氏政の禁制など中世末期の地方史料として貴重な古文書が多く保存されている。特に13 通は川崎市文化財(重要歴史記念物)に指定されている。
泉沢寺では毎年8 月25 日に、お盆の施餓鬼(先祖を供養する)が行われている。寺に訪れる人や近くの人々を相手に、いろいろな店が門前に並んだ。
昔は冬の世田谷ボロ市、夏の泉沢寺門前市(縁日)と呼ばれ遠くまで知れ渡っていた(現在は、1・2 の出店のみ)。
泉沢寺の門前市が盛んな頃、本堂から山門の内外に氷屋、おでん屋、お菓子屋、おもちゃ屋など30 軒ほどの店が出て賑やかだった。明治の末頃には竹やぶが少し切り開かれ、その空き地に見せ物小屋が2・3 カ所も造られ、人々で賑わったという。

泉沢寺本堂(昭和7年)

山門入り口の説明板(昭和50年)

吉良頼康判物(川崎市重要歴史文化財)

このように多くの店が集まり賑わうようになったのは、吉良頼康の判物書状の一つに「寺の繁栄のために、人を集め、門前市を作り、商売する者の税金等を免除しなさい」とう書状によるものである。
これらのことから、縁日はかなり昔からあったことがわかる。
夏の暑い日だが、今のような楽しみのない時代だったので、お祭りと同じような気持ちで、一日を楽しく過ごしたのであろう。
尚、徳川幕府は政治・交通上の要地であったこの神地の泉沢寺へ、御朱印20石を与えて保護していた。

お盆のお施餓鬼に並んだ露店(昭和45年8月25日)

お施餓鬼当日の泉沢寺山門(平成12年8月22日)

吉良頼康判物。泉沢寺を上小田中に再建するに当たって、造営費の一部を家臣や土地の農民たちに拠出させるよう、その趣旨を伝えている

北条氏政の制札(虎の印判状)


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