新・小杉散歩
2020.09.14
農業用水として利用された江戸〜昭和初期の二ヶ領用水(前編)
二ヶ領用水の歴史シリーズ。前回の誕生物語に続く第二部として、完成から昭和初期までの、「農業用水」として用水が大いに活用された時代について触れてみたいと思います。
1611(慶長11)年の二ヶ領用水完成により、用水が通った登戸村付近から川崎の河口までの山間部以外の多摩川下流地域では、新田開発が急速に進みました。1717(享保2)年にはその灌漑(かんがい)面積は2000ヘクタールに及んだといわれています。
しかし、度重なる多摩川の大洪水が与える影響により、土手は痛み、流砂の体積が水路を塞ぐなど、問題も多く発生しました。多少の決壊の修復や河岸の整備は、組合の村々の村民たちの自普請によって賄われてはいたのですが、それも老朽化には追いつかなかったということなのでしょう。決壊や自普請による修復や整備の様子は、大田南畝により、「調布日記」に記されています。
この老朽化を救ったのは享保の改革でした。
第8代将軍徳川吉宗によって主導されたこの改革では、新田開発が奨励され、そのための治水の方法として紀州藩から招聘した井澤弥惣兵衛らが推奨した「紀州流」と呼ばれる方法が採られることとなりました。これにより、徳川幕府が伝統的に採用してきた「伊奈流」(関東流)の工法で作られていた二ヶ領用水は大改修を行う運びとなったのです。
大改修の指揮を執ったのは、御普請役人である田中休愚です。田中休愚は幕府が農村支配体制強化のために有能な地方功者を登用した中のひとりで、元は川崎宿の名主。自らの経験に基づいて、賦税、治水、宿駅、村役人、地方役人、交通、土地政策、信仰、普請、用水、百姓の負担など多方面にわたって、時の治政や社会の状況を明らかにし、幕政への提言を行われた「民間省要」を著したことで1723(享保8)年に御普請役人に。1724(享保9)年から1726(享保11)年にわたって二ヶ領用水の治水工事にあたりました。
休愚は、用水の切り広げ、圦堰(いり:水門)の新設、久地分量樋の造設、橋の石橋化などの改修工事を行いました。それによって二ヶ領用水はよみがえり、そしてまたさらなる恩恵を周囲の村々に与えたといわれています。
田中休愚による治水工事には、老朽化した用水施設の改修の他に実はもうひとつ大きな目的がありました。それは、水争いの解消です。
久地分量樋の造設は、多摩川から上河原と宿河原の二ヶ所で取水し、久地で合流した水を決まった水量に分けることによって水量を安定させるためのものでした。休愚は、こういった水量安定供給のための工事に加え、用水の管理運営について村々名主へ「御作法書」を配り、管理に万全を期すことで水争いを治めようとしたのです。その結果「町歩に応じ引き分け水論もなく、下郷水末村々まで、用水不足なく相届き候」(森家文書)となり、争いは緩和されました。
しかし、水争いはまったくなくなったわけではなく耕地の増加、洪水による圦堰(いり)の破損、干ばつなどによる水不足の際には、やはり争いが起こっていたようです。
大きなものでは1763(宝暦13)年の稲毛・川崎領52ヶ村と登戸村との間での紛争、1821(文政4)年の川崎領地20ヶ村と溝口村での紛争、1852(嘉永5)年の久地村年寄が下流への分水を防いだことによって起こった紛争などがありますが、その中でも1821(文政4)年の紛争は二ヶ領用水の水争い史上最大の事件だったということです。
「溝口水騒動」と呼ばれるこの事件は、干ばつによる水不足の折、溝口村名主が川崎堀樋口を塞いだことで、飲み水にも窮した川崎領の農民が竹槍やとび口を持ち、村名の入ったノボリ旗を押し立てて溝口村の名主・七右衛門宅を急襲し、居室と土蔵を打ち壊したというものでした。集まった農民の数はじつに1万4千人余りということですからその深刻さは尋常ではなかったのでしょう。
この騒動は翌年江戸幕府によって関係者は処罰されることで落着はしました。しかしその後も分水をめぐる紛争は絶えなかったそうです。
後編に続きます。(2020年9月下旬更新予定)
参考:
二ヶ領用水竣工400年プロジェクト《記念事業実行委員会》「二ヶ領用水知絵図 改定版」
「川崎の歴史五十三話」 三輪修三 1986年、多摩川新聞社発行
国土交通省関東地方整備局ホームページ「治水技術の系譜 ~「関東流」と「紀州流」~」