新小杉開発株式会社

新・小杉散歩

2022.01.29

時代とともに変わりゆく多摩川河川敷

現在、丸子橋の大田区側、また中原区側の東横線鉄橋付近にて、多摩川の築堤工事が進んでいます。

R2多摩川左岸田園調布本町築堤工事

大田区側の河川整備。正式名称は「R2多摩川左岸田園調布本町築堤工事」。

なかでも、中原区側の上丸子天神町で行われている築堤工事は、昭和11年に創設された日本初の常設サーキット・多摩川スピードウェイの遺構を取り壊さなければいけないことから、マスコミなどでも取り上げられ、注目を集めていました。

R2多摩川右岸上丸子天神町築堤工事

中原区側の工事の案内板。正式名称は「R2多摩川右岸上丸子天神町築堤工事」。

多摩川スピードウェイの唯一の遺構として残された観客席は、多摩川スピードウェイの跡地保存のための有志団体「多摩川スピードウェイの会」をはじめとして保存を望む声も多く、
一度はすべて取り壊すことで進んでいたものの、このたび一部を移設することが決定したようです。
多摩川スピードウェイの会については、こちらの記事で以前取材させていただきました。

多摩川スピードウェイの観客席跡

多摩川スピードウェイの観客席跡。席の区切りの跡と思われる、四角い穴が残されている。(2020年8月撮影)

多摩川スピードウェイの会プレート

多摩川スピードウェイの会が寄贈した記念プレート。こちらも客席の一部とともに移設されることになったそう。

R2多摩川右岸上丸子天神町築堤工事

現在の「R2多摩川右岸上丸子天神町築堤工事」の様子。左側が観客席の跡地。

多摩川スピードウェイの創設よりさらに昔、大正9年までは、このあたりは青木根地区と呼ばれ、30軒ほどの家々が並ぶ小さな集落がありました。
東横線鉄橋下には神社があり、農家のほか、多摩川で砂利採りする人や船大工、舟釘を作る鍛冶屋など、川に縁のある職業の人々が暮らしていたといわれています。
しかし、当時計画されていた堤防工事により、慣れ親しんだ土地と離れ、現在の堤防外にある丸子天神町に移転したという歴史があります。

堤防工事のため「青木根」から上丸子天神町まで一昼夜かけ、コロで家屋を引いて移転したという大貫家。昭和45年撮影。(中原街道と武蔵小杉「青木根の集落」より)

大正15年の東横線鉄橋

大正15年の東横線鉄橋を大田区側から見た様子。左側は丸子渡船場、中央は砂利堀船。(中原街道と武蔵小杉「時代とともに変化してきた河原」より)

長い歴史のなか、それぞれの時代で水害と向き合い、変貌していく多摩川河川敷の姿。自然とともに暮らす街ならではの進化ともいえます。工事の完了は3月末。新しい景観が楽しみですね。

「中原街道と武蔵小杉」のこちらの記事もぜひご覧ください。
時代とともに変化してきた河原
青木根の集落

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