新・小杉散歩
2021.07.21
新丸子三業地跡を訪ねて
新丸子駅から丸子橋交差点に向かう一角である丸子通り1丁目付近は、かつて「新丸子三業地」と呼ばれる地域でした。
「三業地」とは「置屋」「料亭」「待合」の三業の営業許可地のことで、大正末期から昭和40年代末頃まで、この地域は三業でたいへん栄えていたそうです。
三業地の始まりは、多摩川で川遊びをする人々の憩いの場として開業した、料亭「丸子園」。1924(大正13)年のことです。「へちま風呂」という名前の大浴場や百畳敷の大広間を備えた、約3000坪の広さを誇る、立派な料亭だったそうです。
「丸子園」が掲載された地図は見つからなかったものの、のちに日本電気株式会社(NEC)の寮として建て替えられていたことから、現在の丸子橋交差点の角に建てられていたことがわかります。
「へちま風呂」というだけに、客には「へちま型」の容器に化粧水を入れた土産を持たせたとのこと。これは家で待つ奥様へのお土産でしょうか。とするならば、単なる遊興の場というたけではなく、ビジネスや政治的社交の場としても使われていたのかもしれません。
丸子園の開業以降、この地域には料亭が増え始め、戦前には芸妓も50人を超えるほどになったのだとか。風呂を備えた料亭もいくつかあったようですから、多摩川では、それぞれの料亭の浴衣を着て、船遊びや夕涼みを楽しむ「お大尽たち」の姿が多く見られたのかもしれません。
しかしこの地域もまた、戦火の犠牲となります。
丸子園は、開戦後まもない1941(昭和16)年に、日本電気(株)に買収されて廃業。「川崎中原の空襲・戦災を記録する会」が2012年に発行した「川崎・中原の空襲の記録」によると、1945(昭和20)年4月15日、5月24日の川崎大空襲において、そのほかの料亭も、ほとんどが焼けたということです。
夜でも明るかったからなのか、要人がそこにいると思われたのか。空襲被害の地図を見ると、狙われたとしか思えないような惨状です。
こうして川崎大空襲とともに一度は失われた三業地ですが、同年の12月には「花本」が再び開店したことを機に復興を遂げ、戦前を超える 賑わいをみせます。
最盛期は、1950〜1961(昭和25〜36)頃。その頃料亭は「花本」「菊家」「柳家」「北川」「一直」等、25軒くらいが営業しており、芸妓は100人を数えたといいます。
1958(昭和33)年の「川崎市中原地区明細地図」を見ると、料理店や酒屋、美容室といった三業の周辺産業店舗も多くありました。
華やかな活気をみせながらも、その後は時代の流れとともに、急速に住宅地化が発展します。
1965(昭和40)年の「川崎市中原地区明細地図」上では、まだこの地域の大半が三業に関わる施設や店舗だったものなのですが、その10年後の1975(昭和50)年の同地図を見ると、住宅や工場、事務所に変容しています。
三業の組合事務所でもあり、芸妓唄や三味線のお稽古場でもある、「見番」と呼ばれる施設は昭和50年にはまだあったようで、写真にも残されていますが、1977(昭和52)年の地図には、掲載がありません。見番は、芸妓がいる限りあるものですので、どうやらそのあたりが終焉だったようです。
今はすっかり面影もなくなってしまった三業地ですが、当時の資料を片手にその道を歩くと、なんとも感慨深いものがありました。
今回は三業地の施設や店舗を追ってみましたが、この地ならではの文化も生まれていて、中には今も残っているものもあります。それについてはまた次回、こちらでお伝えいたします。
参考資料:
「川崎・中原の空襲の記録」(川崎中原の空襲・戦災を記録する会発行,2012年)
「川崎市中原地区明細地図」 昭和33年(経済地図社,1958年)
「川崎市中原地区明細地図」 昭和40年(経済地図社,1945年)
「川崎市中原地区明細地図」 昭和50年(経済地図社,1955年)
「川崎市中原地区明細地図」 昭和52年(経済地図社,1957年)
丸子園と新丸子三業地については、下記ページにて詳しく書かれています。ご興味ある方はぜひご覧ください。
へちま風呂の「丸子園」
新丸子三業地