新小杉開発株式会社

新・小杉散歩

2021.08.16

多摩川花火大会のはじまりと中原音頭

前回の記事でお伝えした「新丸子三業地」。今回は武蔵小杉・新丸子エリアに受け継がれる、夏の風物詩にまつわるお話へと続きます。

地元の人々のみならず、多くの人々に愛される 多摩川の花火大会は、じつは 丸子園の経営者であった大竹静忠が始めたもの。1925(大正14)年に、氏の出身地である三河(愛知県)から三河花火の職人を呼んだのが始まりだそうです。
その後、主催者や打ち上げ場所が何度か変わり、また、戦争や多摩川大橋付近交通事情の問題のために中断されたりはしたものの、地元の人々から愛される多摩川の風物詩となりました。

丸子多摩川花火大会のポスター

丸子多摩川花火大会のポスター(1950年)
『中原街道と武蔵小杉』より。

また、全国的に青年団運動が発展した昭和初期、その交流の場で親交を深めるために郷土の民謡を持ちたいという声が高まったことによって作られた「中原音頭」のお披露目会が行われたのも丸子園でした。当日は100人近い青年たちの踊りの輪ができたといいます。

「丸子園」の百畳の大広間。

「丸子園」の百畳の大広間。「中原音頭」のお披露目会が行われたのが園内のどこであったかの記載は見つからなかったが、庭園かこの広間のどちらかだったのではないだろうか。『中原街道と武蔵小杉』より。

この「中原音頭」のほかにも「新丸子節」「多摩川盆踊」といった3曲が作られています。それらの歌詞は、日枝神社の敷地内にある石碑に刻まれていて、「中原の民謡」として伝えられています。どの歌詞にも当時の情景が偲ばれます。

中原民謡石碑

日枝神社にある「中原民謡」の石碑。建立は1998(平成10)年。「昭和の初期、青年団活動の華やかなりし頃郷土の民謡を持ちたいという願いから生まれたものであり、当時は盛んに唄い踊ったそうだが何時か忘れられ唄える人も僅かになってしまった。しかし当時の風情を知る貴重な里の民謡として、又先人たちの想いを永く後世に伝えんと碑に刻み此処に建立するものである。 宮司 山本五郎」とある。

中原区文化協会が発行している広報誌「文化 なかはら」によると、「中原音頭」は、後に結束された保存会によって、1968(昭和43)年の第一回中原地区文化祭にて復活していたとのこと。ですが、現在はまた見られなくなったようです。ほかの2曲に関しては資料が見つからず、この石碑に書かれていること以外はわかりませんでした。もし見つかれば、武蔵小杉駅前の盆踊りで復活…なんていうこともあるかもしれませんね。

文化なかはら表紙

中原音頭について書かれている「文化 なかはら」第22号 (中原区文化協会発行,1981年) 。写真は1968(昭和43)年、第一回中原地区文化祭で再現されたときのものだと記載されている。

これらの資料から地域の文化にも深く関わったと思われる、三業地の「丸子園」。その経営者である大竹静忠は、実業家としても成功を遂げていたそうです。氏は、裸一貫からスタートし、パン屋の経営を 経て、 日露戦争(1904〜1905年)後、築地に「大竹製菓工場」を設立。1923(大正12)年の関東大震災後には東京六郷に第二工場を建てたのだとか。
実業の世界にいたからこそ、産業が地域文化へ貢献することの大切さを感じていたのかもしれません。

もちろん、地域へ貢献したのは、 ほかの三業地施設も例外ではなかったようです。
日枝神社には勧進の跡が残っていますので、地元の祭礼にも貢献していたのだと思われます。残されたものは経年のため文字が読み取れないものも多いのですが、神社を囲む玉垣の一部に「伏見」「さか井」「丸嶋旅館」「よね家」「一直」「錦水」などの名前を見ることができました。

日枝神社の玉垣

日枝神社の玉垣。「新丸子旅館 伏見」とある。

日枝神社の玉垣

日枝神社の玉垣。「よね家」とある。

日枝神社の玉垣

日枝神社の玉垣。こちらは「一直」のもの。

日枝神社の玉垣

日枝神社の玉垣。「錦水」とある。

遊興の場がビジネスの場として成長・発展した、多摩川の歴史。そこで得た利益が地元の文化や祭礼に還元されることによって活性した文化は、今もなお、そして今後も残されていくのでしょう。
今年の花火大会は残念ながら中止とのことですが、再開が楽しみです。

参考資料:
「文化 なかはら 第22号」(中原区文化協会発行,1981年)

丸子園と新丸子三業地については、下記ページにて詳しく書かれています。ご興味ある方はぜひご覧ください。
へちま風呂の「丸子園」
新丸子三業地

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